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ホモ・ルーデンス2.0 [Homo ludens 2.0] >, in: Ritsumeikan Studies in Language and Culture. Special issue "Homo ludens 2.0. International workshop with Prof. Jos de Mul".  Volume 26, no.1 (2014),  1-18

ジョス・デ・ムル1)/樫田祐一郎,雁木 聡,原 草平(訳)

 ―遊びの領域は広大であるエミール・バンヴェニスト

※〔〕内は補足・訳注

 

序戯〔前戯 foreplay

 

この世界を幽霊が徘徊している―遊戯性という名の幽霊が。我々は今や,世界規模の「文化の遊戯化〔ludification〕」を目撃している。「遊戯的な〔ludic〕」という単語が,ヨーロッパやアメリカにおいて,遊び心に満ちた振る舞いや人工物を言い表すための語として定着した1960 年代以降,遊戯性はますます我々の文化における主流な特徴となってきている。この文脈でまず心に浮かぶのは,ひょっとするとコンピュータ・ゲームの途方も無い人気であるかもしれない。世界的な売り上げに関する限りでは,それらは既にハリウッド映画をも凌ぐほどになっているのだ。アメリカでの最近の研究によれば,8歳から18歳までの子供達は,一日に平均して90分はディスプレイ画面やコンピュータ,或いは携帯式のゲーム機(携帯電話も含む)でコンピュータ・ゲームに興じているとのことである2)。これは決して西洋に限った現象ではない。たとえば,韓国では全人口のおよそ3分の2が頻繁にオンラインゲームで遊んでおり,コンピュータ・ゲームは最も成長著しい産業の一つにして「韓国経済を駆動させる鍵」3)ともなっている。

おそらくはそれが最も目に見えやすいものであるとはいえ,コンピュータ・ゲーム文化は,あらゆる文化的領域を貫く遊戯化のプロセスの,一つの現れに過ぎない4)。たとえば,我々の今日の経験経済においては,遊戯性は余暇の時間(楽しいショッピングや,テレビのクイズ番組,遊園地,コンピュータやインターネットを遊びに使うことなど)を性格づけるのみならず,かつては真面目なものであった諸領域,たとえば仕事(今日では第一に楽しくあるべきとされる)や教育(真面目なゲーム),政治(遊戯的なキャンペーン)や戦争(戦闘シミュレータやインターフェースといったヴィデオゲーム)さえも性格づけるのである。社会学者のジェレミー・リフキンによれば,「遊びは,産業経済において仕事が重要であったのと同じくらいに,文化の経済において重要になりつつある」5)のである。ジグムント・バウマンが論じるところでは,遊戯的な文化において,遊戯性はもはや子供時代に限定されるものではなくなり,一生涯にわたる〔生き方の〕姿勢となったのだ。「ポストモダンの成人期を特徴付けるのは,心からゲームを抱擁せんとする意志である」6)。バウマンの見解が示すのは,ポストモダンの文化においてはアイデンティティもまた遊戯的な現象となったということである。

本稿ではヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(1938年)を再読し,現代の文化における遊戯的テクノロジーの意味について考えたい。はじめに我々は「遊び」という概念を分析しよう。次に,遊びの現象を特徴付ける根源的な両義性に結びついた,ホイジンガの理論における幾つかの問題含みの側面を議論し,ホイジンガの基本概念の幾つかを定式化し直す。そうした再定式化に基づいて新たなメディアの遊戯的な側面を分析し,遊戯的なアイデンティティ構築という我々の理論の概要を描き出したい。

 

ホモ・ルーデンス 1.0

人間や世界を遊びの相のもとに見るということは,もちろん新しい現象ではない。人間や世界について遊びという観点から説明することは,あらゆる時代,あらゆる文化圏でなされてきた。西洋の文化においては,過去2世紀の間に〔そうした人間観・世界観の〕重要な展開を見ることができる。啓蒙主義は遊びに対して何ら深い興味は示さなかったが,ロマン主義の運動は遊びという現象に新たな魅惑を覚える先駆けとなった。フリードリッヒ・シラー―彼は現代の遊戯学〔ludology〕の父と目されうる―は,遊戯衝動〔Spieltrieb〕を人間性の核とさえ見なした。というのは,それが必然性と自由とを調和させることを可能ならしめるからである。彼がこのことを記した有名な一節がある。「人間は,言葉の十全な意味において人間である時にのみ遊び,遊んでいる時にのみ全き人間となるのである」7)。理性(ホモ・サピエンス)や工作(ホモ・ファベル)と並び,ここでは遊び(ホモ・ルーデンス)が注目の的となるに至ったのだ。ニーチェやヴィトゲンシュタイン,ハイデガー,ガダマー,マルクーゼ,ドゥルーズ,デリダといった哲学者たち(その多くはポストモダンの文化の先駆者あるいは代表者と見なされている)は,ヘラクレイトスやシラーによる遊戯学の足跡を辿り,近代の主として合理主義的で功利主義的な存在論や人間学を変容させることを試みた8)。しかしまた自然科学,社会科学,人文科学の領域でも,遊び―そしてそれと関連する現象であるゲーム―への関心が同様に高まった。例えば,生物学9),経済学 10),そして文化人類学 11)におけるゲーム理論の施行が考えられる。こうした既存の学科における遊びやゲームという現象への関心に加えて,この数十年の間に― 余暇の時間と,遊戯-産業や遊戯-資本主義 12)の相当な発展に突き動かされて―遊びや(コンピュータ)ゲームの研究に専ら携わる学科がいくつか新たに誕生した 13)。遊びに関する現代の研究の基礎となる著作は,ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス―文化の遊戯的要素に関する研究』である。この書物は1938年にオランダで初版が刊行され,その後の数十年間で多くの言語に翻訳されたものであるが,これは「遊びについての重要なモダニスト的言明」14)と見なし得るものである。「示唆に富んでおり素晴らしく広い領域を扱うこの著作は,遊戯的なものに関する初の本格的な理論を提供するものであり,さらには刊行から70年を経た今なお,遊びをめぐるいかなる “ 真面目な ” 議論にとっても,不可避の参照点であり続けているのだ」15)。〈遊戯的アイデンティティ〉という我々のプロジェクトにおいてもまた,『ホモ・ルーデンス』は重要な着想源である。この著作は,その壮大な企てと扱う範囲の広さの故に,今でも感銘を与えるものである。既にして「文化の遊戯的要素に関する研究」16)という『ホモ・ルーデンス』の副題とその序文が明らかにしているように,ホイジンガの企ては,いかにして「文明が遊びの中で / 遊びとして勃興し,花開く」17)のかを説明する系譜学を提供することに他ならない。最後から二つ目の章「遊びの相の下に立つ西洋文明」において,ホイジンガは彼の議論を次のように要約している。

何らかの遊びの要素が文化的プロセス全体を通じて大きく作用してきたことや,そうした要素が社会生活の根本にある形式の多くを産み出していることを示すのは,困難なことではなかった。遊戯的な競争の精神は,社会的欲求としては文化それ自体よりも古く,まさしく酵母のように生活の全体に染み渡っている。儀式は神聖な遊び〔演劇〕の内に発達し,詩は戯れの中で生まれ,戯れによって育まれた。音楽やダンスは純粋な遊びである。知恵や哲学は,宗教的な論争に由来する単語や形式で表現された。戦争のルール,貴族生活の慣習は,遊びの諸パターンに基づいて打ち立てられている。それゆえ文明は,その最初期の段階においては遊びであったと結論づけねばなるまい。文明は,子宮から離れる赤ん坊のようにして遊びから生まれるものではなく,遊びの中で/遊びとして出現し,決してそこを去ることのないものである 18)

この要約からは,元来『ホモ・ルーデンス』が遊びやゲームの研究ではなく,むしろ「文化の領域において遊びという原理がもつ創造的性質に関する探究」19)であることが明らかとなる。しかしながら同書の最初の章では,その後に出版された遊びやゲームについてのほとんど全書籍で引用されることとなる,遊びという現象の定義が与えられている。

遊びの形式的な特徴をまとめれば,それは「本気ではない〔not meant〕」20)ものとして,きわめて意識的に「日常の」生活の外部に立つ自由な活動と呼び得るが,しかしながら同時にプレイヤーを熱心にすっかり引き込んでしまうものでもある。遊びは,何ら物質的利害関係にも結びつかず,それをしたところで何の儲けも得られない。遊びはそれ固有の時間と空間の境界の中で,決められた規則に従い,秩序だった仕方で進行する。遊びは,自分たち自身を秘密で包み,変装やその他の方法によって一般的な世界からの隔絶を強調する傾向を持った社会集団の形成を促進するのだ 21)

ここで,こうした定義の6つの要素をはっきりさせておこう。第一に,シラーや彼以前のロマン主義者たちのように,ホイジンガは遊びを,自然や道徳性と対峙した人間の自由の表明であると定義した 22)。遊びは,それが密接に関連しているところの自然や芸術の美のように,「利害関心を欠き」「“日常生活”からかけ離れ」,「それ独自の過程や意味を含み込んで」おり,「我々の日常生活の幕間〔intermezzo〕」として現れる 23)。遊ぶことは,われわれ人間のような脆弱な生き物が生き延びるために必要な食糧や住居やその他諸々に対する日常的な関心によっては特徴づけられない,という意味で「不-真面目」な活動である 24)。遊びは「日常生活の必要性や真面目さの外,それらを超え出た」ところに生じる 25)。遊びは世俗的な生真面目さを超越しているのだ。しかしながらこれは,遊びの活動がプレイヤーの完全な没頭を要求するという事実と相容れぬものではない。遊ぶことは単なる「楽しみ」などではなく,真剣さ,それも「神聖なる真剣さ」なのである 26)。ホイジンガにとってこれは(単なる)比喩的な表現ではない。「より高次の形式において,後者(人間の遊び)は何れにせよ祭りや儀式の領域―つまり神聖な領域―に常に属しているのだ」27)。この種の固有の神聖な真剣さを世俗的な生真面目さから区別するために,我々は前者を聖なる真面目さ〔sacred seriousness〕と呼ぶことにしよう。

2つめに,遊ぶことは「本気でない」行為であり,「ただそういうふりをするだけ」の行為を示している。遊びの中で表象された物事は現実ではない。遊ぶことは,〈さもそうであるかのように行うこと〉に過ぎない。ホイジンガはこれを,「これ(遊び)が“日常の”生活から“異なって”いるという意識」28)と呼んだ。

3つめに,遊びはプレイヤーを激しく熱中させるという点で没頭を要する〔immersive〕というばかりではない。遊びはまた,「緊張や喜びといった感情を伴って」29)もいるのだ。ホイジンガによれば「遊びの気分とは,歓喜や熱狂の一種であり,場合によっては神聖な,或いは祝祭的なものでもある。そのような行為は高揚感や緊張感を伴い,歓喜や安らぎがその後に続く」30)。

4つめに,遊びは場所についても持続についても,日常生活とは隔たっている。遊びは時間と場所の特定の制限によって特徴付けられる。つまり,遊びの魔法円〔magic circle;ここでは遊びが生じる領域を指す〕は空間的な円であるのみならず,時間的な円でもあるのだ。遊びは,我々が魔法環〔magic cycle;「時間的な円」を指す〕と呼ぶものの中で,魔法環として催される。「それは“児戯”であれチェスのゲームであれ,いつでも,また秘密の儀式のように一定の間隔をおいて,反復され得る。こうした反復する力の内に,遊びの最も本質的な特質が見出されるのだ」31)。

5つめに,遊びの世界を構成するルールは,遊びの概念にとって決定的に重要である。「あらゆる遊びは独自のルールを持っている。それらは,遊びによって境界を定められた一時的な世界の中で,何が“有効である”かを決定づける。ゲームのルールは絶対的な拘束力を持ち,如何なる疑いを差し挟むことも許されない」32)。「ルールが破られるや否や,遊びの世界全体が崩壊する」33)。ペテン師はそれでもなお遊んでいる振りをし,そうする中で魔法陣や周期を認めているとは言え,「ルールを侵害し,或いはそれを無視するプレイヤーは “ 興冷めな奴 ” なのである」34)。

6つめに,遊びは「秩序を作り出し,それ自体が秩序である。この不完全な世界と,人生の混乱の中に,遊びは一時的で,限定的な完全性をもたらす」35)のだ。遊びは「共同体の幸福,宇宙についての豊かな洞察や社会的発展のために必要不可欠である」36)

ホイジンガが遊びを根本的な「生のカテゴリー」と捉えたように,『ホモ・ルーデンス』の第一章に現れた遊びの定義は普遍的な広がりを持っている。ホイジンガは「あらゆる民族は遊びを,それもきわめて似通った遊びを行う」37)のだとはっきり主張し,遊びの二つの基本的な形式を区別する。「文明がそこにおいて遊びの中で/遊びとして発展したところの,これまで繰り返されてきた二つの形式とは,神聖なパフォーマンスと祝祭的な競技である」38)

ホイジンガの成果の批判的練り上げを行った『遊びと人間』(1958年)の中で,ロジェ・カイヨワは 4 つのカテゴリーからなる類型学を示している。ホイジンガが述べていた二つの形態 ―カイヨワの用語でいえば,子供の真似事から演劇まで含んだ〈模擬〉(ミミクリ),および自由な遊びやルールのあるスポーツ,コンテストなどの〈競争〉(アゴン)―に加えて,カイヨワは〈運〉(アレア)と〈眩暈〉(イリンクス)の二つを区別した。前者はカウンティング・アウト・ライム〔counting out rhyme;日本でいえば「どれにしようかな天の神様の言う通り…」のような歌〕や籤引きに見られるものであり,後者はメリーゴーランドの「回転」から山登りにまで及ぶものである。こうしたゲームのタイプ分類を横断して,カイヨワはさらに2つの遊びの態度を区別する―パイディアとルドゥスである。パイディアとは「自由な遊び」を指す。つまり,即興,気楽な明るさと笑い,自発的で衝動的な,至福の,制御のきかない空想である。一方で,ルドゥスはパイディアに規律を与え,豊かにする。というのもルドゥスとは「ゲームをすること」,より正確に言えば,ルールに支配され,しばしば特定の技術と熟練を必要とするような遊びの形態を指すのである39)。4つのカテゴリーのどれにおいても,遊びの現象はパイディアとルドゥスという極の間のどこかに位置する。しかしながら,アゴンとアレアはルドゥス寄りで,他方イリンクスとミミクリはパイディアの方に傾いている。これら2種の分類法を組み合わせることで,現代の文化における遊戯化の分析にとって便利なツールとなるのである。

情報・伝達テクノロジーの遊戯的な次元へと注意を向ける前に,少しだけホイジンガの歴史的分析を見返さなければならない。彼は,すべての文化は「遊びの中で,遊びとして生まれ,展開される」ということを強調するが,文化が常に遊びを保ち続けるとは主張しない。シュペングラーによる『西洋の没落』(1918-1923)の悲観的な調子に共鳴してホイジンガが主張するには,文化はその黎明期においてもっとも遊戯的であり,成熟するにつれてだんだんと生真面目になっていき,遊戯性が減っていくというのである 40)。ホイジンガにとって,ロマン主義は西洋文化において遊びの精神を未だ保っていた最後の段階である。深刻な雰囲気を湛えた同書の最終章において,20世紀文化における遊戯的要素に関してホイジンガは,文化における遊びの要素が「徐々に弱まっている」と述べる―「今日の文明はもはや遊びではない」41)というのである。ホイジンガも認めるように,こうした意見は20世紀の文化においてスポーツやポピュラー文化が主要な産業となっているという事実と食い違うように思われる。ところが彼は遊びと真面目さとの関係について,相矛盾する二つの傾向を見分けるのである。彼の見方では,それらはいずれも遊びと(世俗的な)生真面目さとの境界をぼやかしてしまうものだ。一方でホイジンガはプロ・スポーツに言及しながら,遊びが次第に真面目になってきており,その結果遊戯性が失われていると主張する 42)。しかし他方で彼は,例えば商業競争のような〈世俗的な生真面目さ〉の領域において我々は遊戯性の増大を目の当たりにしているのだとも主張する 43)。ホイジンガとって,これらの傾向はより遊戯的な文化につながるものではなく,むしろ公平さを欠いた行為の現れ,「偽りの遊び」であり,ゆえにそれらは(遊戯的)文化そのものを少しずつ弱めているのだ 44)。彼が指摘するのは,遊戯的文化の衰退に関わるいくつかの「文化そのものとは独立にある外在的要因」45)である。その要因とは特に,世界規模での文化の商業化 46),および小児症〔puerilism〕(若さと野蛮のブレンド 47))の発生であり,そのいずれも現代の情報伝達テクノロジーに支えられたものである 48)。この文化を特徴づけているのは,「つまらない娯楽と品のない扇情主義への飽くなき渇望,国民総出でお祭り騒ぎをする愉しみ」であり,また「ユーモア,礼儀正しさやフェア・プレイという観念そのもの」49)の完全な欠如である。ホイジンガがこれらの痛烈な言葉を書いたのが1938年であることを忘れるべきではない。まだ第一次世界大戦の思い出したくないような記憶が残っており,ファシスト運動の出現という常軌を逸した野蛮さへの恐ろしい予感を感じている時期である。しかし我々の見るところでは,ホイジンガのペシミズムはただ歴史的文脈に動機づけられただけのものではなく,彼の議論における実際の矛盾を指し示しているのである。現代の,高度にメディア化された文化の遊戯化を理解するために,遊びをひとつの根本的カテゴリーとして考えるホイジンガの鋭い洞察を利用するには,先ずこれらの矛盾と折り合いをつけなければならない。それらの矛盾は遊びという現象それ自体の基本的な両義性を言い当てているのである。

 

半ば真面目な幕間

刺激的な洞察にも拘わらず,『ホモ・ルーデンス』は未だに多くの矛盾と両義性で読者を悩ませる。そのうち最も重要な4つに触れておこう。第一に,遊びは現実でも仮象でもあるものとして呈示される。一方では,ホイジンガは遊びを人間生活の重要な側面として呈示し,文化は遊びの中で,遊びとしてのみ可能となるとさえ主張した。ところが他方で彼は,遊びは日常生活のまったくの外側で生じるもので,利害関心を欠いた「幕間」に他ならないと主張したのである 50)。遊びは「コミュニティの幸福に不可欠であり,宇宙観や社会の発展を豊かに生み出すもの」であるが,同時にそれは「ふりをしているだけ」であり,したがって現実の生活に劣る 51)。そのリアリティゆえに我々は「聖なる真剣さ」をもって遊びをするが,それは全くシリアスなものではないのだ。第二に,遊びは自由でありかつ強制力である。ホイジンガによれば,遊びは人間の自由を賛美するものであるが,しかし彼は「遊びは人に呪縛をかける」52)とも考えていた。遊びは完全な没頭を求めるからである。また,ゲームのルールは「絶対的に拘束する」ものであるというにも拘わらず,〔現実には〕プレイヤーはそれらのルールを絶えず破り続けている。第三に,ゲームは確定的でありながら,変化しつつもある。ホイジンガはゲームのルールが絶対的であることを強調していたが,同時に『ホモ・ルーデンス』は,何よりまず,遊びが様々な文化形態へと果てしなく変化していく歴史の物語なのである。第四に,一つの活動として,遊びは個人的でも集団的でもある。プレイヤーはその人自身の,個人的な遊びの世界に没頭するのだが,大抵の場合プレイヤーは,別のプレイヤーを仲間あるいは相手にして,共有された遊戯空間でしばしば観客を前に遊びを行う 53)。さらにいえば,ミミクリの場合,演者は誰か別の人物であるふりをするのであって,自分自身の中に複数の人格のコミュニティを形成するのである。アーマン(1968)やモット(2009)等の研究者もまたこれらの両義性を指摘し,ホイジンガを矛盾に絡めとられているとして批判した。アーマンによれば,〔遊びと現実の〕「階層秩序的二項対立」(そこでは遊びは,それに先立って独立に存在するとされる現実なるものの表象として理解される)は非常に問題含みである。というのも「現実を表現する文化の現れの外側やそれ以前には,“現実”など(日常的であれ非日常的であれ!)存在しない」54)からだ。モットは正当にも,ホイジンガは遊びの両義性に対して,アーマンが考える以上に優れた感性を示していると主張する。しかしホイジンガは,文化(聖なる真面目さ)と日常生活(世俗的な生真面目さ)が遊びの中で,遊びとして結合されうるという事実も,いかにしてそうなるのかということも説明できない。態度のレベルでは遊びと真面目さを,また存在論的レベルでは遊びと現実を,それぞれモダニスト然として対立させることに拘泥している限り我々はこうしたことの説明には到達できない,とオイゲン・フィンクは述べる 55)。遊ぶことを,一方では完全に真面目な日常世界から区別し,他方では全くの空想からも区別するもの,それはプレイヤーが同時に日常的な世界と遊びの世界の双方に存在しているということ,そして我々は自分が両方の世界に同時にいることを意識しているということである 56)

ここで再び,遊びの経験は美的経験と非常に近いものとなる。美的経験は同様の二重の経験によって特徴づけられる。この両義性,二重の経験は,人間の反省性に結び付いている。つまり人間はただ経験するだけでなく,同時に自らが経験しているということを経験することも可能なのである。プレスナーの哲学的人類学の言葉を借りれば,人間の経験は中心的〔centric〕であると同時に脱中心的〔eccentric〕である。(脱)中心的であるということが含意しているのは,我々は常に直接的経験に縛られているにも拘らず,そうした直接的経験を超えて,自分自身が別の経験をしているのだと想像できるということである 57)。したがって遊戯的活動に没頭しているとき,人はホイジンガやカイヨワが示唆するごとく日常世界の外に出て遊戯世界の魔法円に入って行くわけではない。そうではなく,オイゲン・フィンクが主張するように実存を二重化してしまうのである 58)。遊びのこうした二重性は,遊びという現象を正しく理解するためのいくつかの重要な示唆を与えてくれる。まず初めに,遊びが秩序を生むというホイジンガの発言はより深い意味を得る。この秩序は,日常の現実の全くの外側あるいはそれを完全に超えたところにあるような一時的な秩序というよりも,遊びがなされている間,日常の現実に重ねられる意味の層なのである。遊びの活動において,世俗的な現実は聖なる真面目さの層によって豊かになる。テクノロジー以前にこのような形で現実の拡大があったのだ! 遊戯の二重性が二番目に示唆するのは,遊戯世界への熱中には常に「これはたんなる遊びだ」という経験を伴うまさにそのゆえに,遊びの手引となるルールは必然的に,相対的で柔軟でかつ変更可能なものとして経験されるということだ。ルールはいつも修正できるようになっている。これは,ルールの絶対的な性格を強調したホイジンガと鋭い対照をなしている。さらに言えば,ルールを軽視することは遊びの多くの形態に本来的に備わっているものなのである。

遊戯の柔軟性と結び付けて,ミンネマは19世紀・20世紀の文化における遊びへの関心の高まりについて興味深い説明をしている。ルーマンに従いつつミンネマが主張するには,近代の始まり以降,西洋文化はそれまでヒエラルキー的に階層化されていた社会構造を分化された構造に変容させてきた。その構造は,多くの下位構造,例えば政治・経済・法・教育・科学・テクノロジーや芸術等を含み,そのどれもが相対的な自律性を持ち,それぞれに特有の諸規則がある。こうしたことは社会の複雑性と柔軟性をより高次のものにする 59)。ミンネマによれば,20世紀が遊びとゲームに夢中になったのはこの社会的発展に強く結び付いている。遊びは,ひとつの通過儀礼,即ち行動と思想の新しい(再)結合への可能性,生活の代替モデルのデータベースとなる 60)。しかしながら,前近代や近代の通過儀礼と違って,ポストモダンのそれははっきりと画定された変容の(敷居的な〔liminal〕)期間をもはや持たず,終わりのない(リミノイド〔liminoid〕な)現象になったように思われる。そしてそれは社会経済的,文化的,マルチメディア的なシステムのなくてはならない部分である 61)。文化の遊戯化について語る際に我々が直面する問題は,この遊戯化が遊戯的な活動の増加によるのか,それともむしろ視座の変容―つまりそれ自体では必ずしも遊戯的でない存在物や領域を理解するために,我々が遊びをメタファーとして用いるようになったということ―によるのか,ということである。どちらも正しいと考えられよう。一方ではホイジンガの主張に反して,ロマン主義運動以来,西洋文化は「遊戯的世界観」の驚くべき再興の舞台となってきた(ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』はこうした展開のひとつの成果である!)。他方ではそうした視座の変化もまた,新しい遊戯的な態度や実践,対象の発展を生み出してきた。そして今度はこうした態度,実践,対象が,世界観の遊戯化を一層促すというわけである。原則として,人間生活における「真面目な領域」のどれひとつとして「遊戯化」からはじかれることはない。遊戯化はホイジンガが遊びの衰退を体現するものと見做した「真面目な領域」―即ち現代テクノロジーにとってさえ重要なものなのである。

 

遊戯的テクノロジー

19世紀の初頭以来遊戯的な世界観が消えてしまったというホイジンガの主張は疑わしいものであるが,それは遊びと技術が相容れないという彼の主張にも言えることである。エルキ・フータモによれば「(19世紀における)大規模な機械生産の導入と同時に,ゲーム機など,娯楽を提供してくれるさまざまな装置が大量に生み出された」62)のだという。我々はさらに次のように言おう。デジタル技術が深く根付いた現代の我々の文化において,遊びはこの文化を理解するための鍵となる特色であり,また我々は―次節でみるように―まさしく「遊戯的テクノロジー」によってこそ自らのアイデンティティを反省的に作り上げているのだ,と。

諸々のデジタル情報伝達テクノロジーがそれぞれの媒体に応じてもつ固有の遊戯的特徴について語るとき,我々は決して本質論的な一揃いの諸性質を参照したりはしない。これまで論じてきたように,遊戯性はある単一の特徴のうちに存しているのではなくむしろ諸特徴の集合として理解されるべきなのであるが,それらの特徴というのは,幾つもの活動が,多かれ少なかれ重複しあいつつも様々に組み合わされているなかに現れてくるものなのである。問題は,コンピュータ・ゲームやインターネット,携帯電話といったデジタルメディアがその使用者にいかなる遊びの可能性(と制約)をもたらしているのかということである 63)。遊びの可能性は,それが使用者の遊戯的な態度によって実現され,そのものとして体験されるまでは「潜在的な〔virtual〕」ものでしかないのだ。このように遊びの機会を探ることは,我々が前に視座の変容と呼んでおいたものと密接に関係している。デジタルメディアを遊戯的な実践とみなすことで,我々はそうしたメディアを(以下でより詳しく議論することになるが)具体的な観点から概念化することができるようになるのである。

我々がここで焦点を当てるデジタルメディアのいくつかの特徴とは,マルチメディア性,ヴァーチャル性,双方向性〔interactivity〕そして接続性〔conectivity〕である 64)。マルチメディア性とは,画像(静止画像あるいは動画)や音響(語り,音楽そして雑音),文字テクストなど表現手段が多様であるということだけではなく,何よりもまず,そうした諸要素がある共通のデジタルコードを共有しているという事実に関わっている。このマルチメディア性はあらゆる種類の経済的・法的含意を伴った特徴である 65)。デジタルメディアの第二の特徴であるヴァーチャル性とは,伝統的には,シミュレーション・テクノロジーの新たな諸形態によってもたらされた没入型の体験(ヴァーチャル・リアリティを思い浮かべるといい)や,また情報伝達ネットワークが作り出すメタファーとしての空間(電話で話しているときに生じる空間などを思い浮かべるといい)を指すものである。しかしミヒール・デ・ランヘが正当にも論じているように,こうした記述は主として「リアルなものとヴァーチャルなものという相容れない二つの存在論に基づくものだ。しかし最近の(モバイル)メディア研究の多くはこのような分け方に疑問を呈している。携帯電話の“ヴァーチャル性”は“現実生活”に埋め込まれている。そしてまた反対に“現実生活”の方は“ヴァーチャルな”情報伝達活動に包み込まれている」66)。「ヴァーチャル・リアリティ〔仮想的現実〕」はいよいよ「リアル・ヴァーチャリティ〔現実的仮想〕」67)となってきているのだ。さらに,双方向性つまり〔受容者の主体的な〕参加という第三の特徴のおかげで,デジタルメディアは様々なレベルでの関与をもたらし,そのなかでユーザーは「有意義な仕方で表象そのもののなかに介入する」68)ことができる。サレンとツィンマーマンによると,こうしたユーザーの介入は二つの異なる形態をとりうるという。第一の形態は彼らが「明示的な双方向性―即ち選択肢や手順が設えられたうえでの参加」と呼ぶものである。第二の形態は「対象を超えた双方向性―即ちその対象の文化に参与すること」69)である。後者については例えば,愛好家文化のなかでのオンラインゲームの共同制作や,ユーザーたちがウェブサイトを共同で作ることを可能にするウェブ2.0のアプリケーションなどが考えられる。第四の特徴である接続性の一例は,世界最大の SNS であり5億人もの登録者をもつ Facebook である 70)

ホイジンガが詳細に論じたように,遊びという概念はメディア経験を分析するためには非常に有効な出発点である。我々のメディア経験と遊びの経験とには多くの共通した特徴や両義性がある。また別の言い方をすれば,デジタルメディアはユーザーに新たな遊びの機会をもたらすということでもある。デジタルメディアという媒体固有の特質〔medium-specificity〕が遊びの特異な可能性をいかにして開くのか,ということを示すために,我々は先に区別しておいた遊びの六要素を考慮に入れねばならない。第一の要素(人間の自由の表現)はさらに3つに下位区分できる―遊ぶことの自由,遊びのさなかに諸々の決定を行うことの自由,そして世界に対する自由,である 71)。実際にメディアを使用する際にこれらの3種類の自由がいかに形成されるかをつぶさに見てみるとき,印象的なのは次のようなことだ。つまりホイジンガが述べていたように,自由と強制力は,先程彼の分析が孕む両義性について論じた際に我々が主張したほど真っ向から対立しているわけではないのである。

〔第一に〕遊ぶことの自由は遊びをしようというプレイヤーの決定において可視化する。しかし生計を立てるために遊びをする(ことを余儀なくされる)としたら,そのとき自由と強制力,そしてまた遊びと仕事はこの上なく奇妙な仕方で絡み合うことになる。〔第二に〕有意義な決定をする自由とは,デジタルメディアの双方向的な,つまり参加型の性質に関わっている。ホイジンガが述べているように,遊びとは「自由な活動」である。参加型文化の勃興の一例といえばウェブ1.0からウェブ2.0への移行が挙げられる。ごく少数のメディアコンテンツ製作者がテレビやラジオの限られたチャンネルを通じてそのコンテンツを大衆に向けて送り出すというのとは違って,ウェブ2.0においてはネットにアクセスできるひとなら誰でもコンテンツ提供者になりうるのであって,そうして彼らは特定の,各人ならではのトピックについて,ターゲットにした受容者に向けてリポートすることができるのである。メディアのユーザーは一定程度「管理されて」いるに過ぎないという事実については,我々は遊びのルールとの関係でさらに論じるつもりである。

最後に,遊ぶことは外的世界の拘束から自由であるということをも意味している―遊びは先程触れた「世俗的な生真面目さ」を超越しているのだ。遊びは「その目的をそれ自体のうちに」72)持っているべきである,とする主張は,今日のゲーム文化においては支持しがたいものである。そこでは多人数同時参加型オンライン RPG(MMORPG)のアイテムがネット・オークションや eBay のようなショッピング・サイト上で交換されており,また真面目なゲームなどは遊びを教育的な目的に用いているようにも見えるからだ。しかしヘクター・ロドリゲスによればこれは必ずしも実情ではない 73)。真面目なゲームは単に「教育の“有効性”を最大限に高めるための媒体」として用いられているだけでなく,「教えられる主体の根本性質」を明らかにするためのものでもあるのだ。このことが意味するのは,Food Force や Darfur is Dying のような真面目なゲームにおいては,世俗的な真面目さと聖なる真面目さとが初めから相容れないわけではないということである。幾人かの批評家がこのように主張している 74)

第二の要素である〈ふりをすること〉は,(デジタル)メディアを〈さもそうであるかのように行うこと〉として用い,かつ/またはそのように理解することに関わっている。つまりメディアの二重性である。遊びと同様,「我々のメディア文化は世界の“疑似性〔as-if-ness〕”を受け入れることで成り立っている」75)。このことの理由はジェイ・デヴィッド・ボルターとリチャード・グルーシンが「再メディア化〔remediation〕の二つの論理」と呼ぶものに関係している。(デジタル)メディアが透明な直接性〔immediacy〕の論理―これは消え去ることが当の媒体の目的であるということを意味している(「ウェブのネットワーク化された情報伝達の柔軟性とライブ性を通じて直接性が約束された状態」76)のことを思い浮かべてほしい)―に従っているときでさえ,それらのメディアは同時に超メディア性〔hypermediacy〕の論理に従っているのだ。つまりユーザーは,自分がインターフェイス(の被構成性)と接触しているということを常に想起させられ,あるいはそうした接触へと絶えず連れ戻されている。ウェブの場合でいうとスクリーンが幾つものウィンドウで満たされ,そのウィンドウひとつひとつがさらに様々なマルチメディア・アプリケーションで満たされているという状態である 77)。メディアのユーザーは,原則として,自らが直面している現実が「ひとえに媒介されている」ことに気づきうる境遇にあるのだ。メディアはそれがいわゆる「現実」の自律的で透明な現れと見做されるよう,自らの被構成性(例えばそのメディア自体のイデオロギー的諸前提)を消去することを試みるが,メディア教育の明示的な目標は,メディアがそのようにする仕方に対してユーザーをより意識的にすることである。

デジタルメディアを使用することの愉しみ(および/あるいは不快さ)という第三の要素を分析するために我々は,生産,メディアテクスト,受容という三つの間の媒体固有の関係性を考慮に入れねばならない。したがって我々は「生産者が展開するスクリプトと諸規則との関係において愉しみがいかにして生み出されるのか,そしてユーザーがそれらをいかにして経験し,いかにしてそれらと関わりあっているのか」78)という問いに着目する必要があるのだ。デジタルメディアが旧来のメディア以上の愉しみを与えてくれるはずだ,という広告や市場キャンペーンの示唆は,我々には擁護しがたいものと映る。我々はむしろ次のように主張しよう。デジタルメディアは幅広い多様性をもつ複雑な愉しみを与えてくれるのだが,そうした愉しみは― 個々のユーザーやコンテクストにもよるが―旧来のメディアが提供するはずのものと部分的には異なるが,また部分的には同じであり(例えば物語の愉しみ),部分的にはより激しいものなのだ(例えば没入の愉しみ)。デジタルメディアに特有であるのは,まず双方向性と関係した不快さと愉しみであり,これは例えばコンピュータ・ゲームには中毒性もあるが退屈や苛立ち(ダウンロード待ち〔World Wide Wait〕)もあるというようなことである。また管理されていると同時に制御が効かなくなっているという感情や,勝利と敗北,成功と失敗などの緊張もデジタルメディア特有のものだ。さらには,一方ではルールへの服従とその確証によって,他方ではルールを取り決めあるいはそれに抵抗することで経験されうるような愉しみというものもある 79)

第四の要素は時間と空間の明確な限定であるが,これは現在のようなユビキタス的コンピュータ使用の時代においては多大な圧力を被っているように思われる。それどころか,今日のメディア文化の特徴を規定し(そして開放すると同時に抑制し)ていると見えるのは携帯電話の無限定性である 80)。しかしだからといってデジタルメディアには個別的な時間・空間がないというのではない―メディアは受容者を日常生活から区別された時間と空間のうちに引き込む能力を持っているというばかりか実際こうした能力に全面的に依存しているのであり,そうでなければ日常生活は容赦ない混乱に陥ってしまっていただろう。我々がメディア化のプロセスに参入するその度ごとに跨ぎ越すべき敷居が存在しているのだ 81)。このことは例えば我々が安全性の問題に着目するときに露わになる。デジタルメディアのユーザーは,遊びをする者がそうであるように,新たなアイデンティティを試し,試験し,実験することができるのであるが,それは現実生活に何らかの結果をもたらす必要のないものなのだ 82)。こうした限定はまた,ユーザーが(魔法のサイクルを)続けたいと思うのに外的な理由でその媒体の使用を中断することを余儀なくされるようなときにも前景化する。

第五の要素である遊びのルールは,それはメディアのシステムという(マクロの)レベルでも個々人という(ミクロの)レベルでも,受け入れられるか弄ばれるかのいずれかである。一方ではデジタルメディアはユーザーをそのルールに服従させる。明確な制限の範囲内で,ユーザーには遊ぶ自由があるのだ。個々のユーザーは,スチュアート・ホールの言うメディアテクストの「選好的な読解」83)を行い,かつ/または,デジタルメディア・システムの,予めプログラムされてそのシステム内部に属する多くの可能性のなかからひとつを選び出す。このいずれの場合においてもユーザーはルールに従って遊びをする。しかし他方ではユーザーは―多かれ少なかれ―転覆的な仕方でそうしたルールを弄ぶこともできる。ここではユーザーはメディアテクストの「敵対的読解」に携わり,かつ/またはマクロのレベルではメディアの生産者,分配者,消費者の関係性を変化させようとする。しかし注意が必要である。参加型文化という概念は,手ずから何かを為すことを理念とするカウンターカルチャーの重要性を強調しすぎるおそれがあるからだ 84)。メディアは自らの論理を,自由と強制力との弁証法において我々に課してもくるのである 85)。第六の要素である秩序は,ソーシャル・グループの形成に関係している。コミュニティに基礎を置いた一時的な秩序を作り出すウェブ2.0のアプリケーションの好例はいわゆるグリーン・ブログである。これはフェリックス・ガタリによるポスト・メディア時代の分析に即したものである。彼いわくポスト・メディア時代において「メディアは,自分たちの再個性化を導くことのできる多くの主体グループによって再-自己固有化される」86)のである。

遊戯的実践としてのデジタルメディアにアプローチすることで,我々は以前区別しておいた四つの両義性という観点からそれらのメディアを概念化することができる 87)。第一の両義性はメディアの「疑似性」に関わっている―現実と仮象は厳密に区別されるのではなく有意義な仕方で相関しあっているのだ。デジタルメディアは,いかにリアルに思われるとしても,ユーザーが自らのメディア経験の被構成性に(多かれ少なかれ)意識的になることを可能にする。このことは自由と強制力の対立という第二の両義性をも含意している。遊びがそうであるように,ルールは「たかが遊びのルール」であって,基礎的なミクロのレベル(メディアテクストおよび/またはテクノロジーに双方向的に影響を及ぼす個々のユーザー)でもマクロのレベル(メディアの生産者,配分者,消費者の関係における変化)でも常に修正しうるものと考えることが我々には可能である。自由と強制力の間には弁証法的な関係性がある―我々は遊びをすると同時に「遊ばれる」こともできるのだ。第三の両義性は確定と変化のそれである。各々の媒体は自らこそが長らく続いた発展の最終局面であると僭称している―ウェブが,柔軟かつ生き生きとネットワーク化された情報伝達の可能性に基づく直接性を要求し,携帯電話が理想的なコミュニケーションへの願望を実現すると主張しているのを考えるといい 88)。ところが,歴史が示しているように,そうした主張の殆どとは言わないまでもその多くは,より新しいメディアの到来とその主張によって時代遅れのものになりつつある。例えばウェブのライブ性は「テレビ放送のライブ性が新たに作り直されたもの」89)である。また第四の両義性である個人性と集団性は今日のメディア領域における個々のメディアのアイデンティティに関係している。この領域は「輻輳〔convergence〕」(「異なるメディアシステム間の交差の過程が進行中である状態,あるいはそうした一連の交差」)90)あるいは「再メディア化」(「あるメディアが他のメディアにおいて代理されること」)91)の概念によって特徴づけられうる。ウェブが他のあらゆるメディアの代理となりあるいはそれらを吸収すると称しているのを考えるといい。今日のあらゆるメディア―ディスプレイ画面,コンピュータ,携帯電話―は遊びのためのアプリケーションを備えており,いずれも遊びの装置として使用しうるものであるがゆえに,これらのメディアは個々のアイデンティティと思しきものを幾分か失ってしまっており,集合的な遊戯的メディア領域の一部となり,そこにおいてそれぞれの役割を演じている。ひとつ例を挙げるなら,携帯電話は狭い意味での情報伝達ツールから,時を経てマルチメディア・コンピュータへと発展し,ひとはそこにおいて,それでもって,あるいはそれを通じて遊びをすることができる。そのうえ,輻輳するマルチメディア領域は,メディア横断的なゲームやウィルス,そしてまたアレア〔競争〕・ミミクリ〔模擬〕・アレア〔運〕・イリンクス〔眩暈〕を様々に組み合わせ(し直す)オンラインゲーム世界(例えば World of Warcraft や Second Life のような)の創造のための,極めて肥沃な土壌をももたらすものなのである。

 

遊戯的アイデンティティ

本稿において我々は今日の文化の遊戯化を理解するために,ホイジンガとカイヨワによる遊びについての洞察を批判的に吟味してきた。カイヨワによって理論化された遊びの主要カテゴリに即して,ポストモダン時代のアイデンティティは4つの基礎的な側面を示す。〔第一に〕競争的アイデンティティという側面は,経済的な生産・消費から教育,学問研究そして恋愛関係に至るまであらゆるものを,勝者と敗者を伴うゲームへと変えてしまう。〔第二に〕模倣的アイデンティティの側面は自らを(ロマン主義的な)内向性ではなくむしろ演劇的パフォーマンスにおいて表現する。ポストモダン的アイデンティティのこの側面はスペクタクル社会において顕著な仕方で現れている 92)。〔第三に〕運任せ的な側面は,生まれたときから人生を通じてひとびとが運命の作用によって,つまりギデンスの言う「宿命的瞬間」93)において,特定の境遇に「投げ入れられて」いるのだということを強調する。同時にこの側面は,ひとびとが―幸せな,あるいは宿命的な―人生の偶発事を常に被るべく根本的に開かれているという在り方を甘受するさまをも強調している。この型のアイデンティティにとってリスク社会は「自然な成育環境」なのである。眩暈的アイデンティティの側面はスリルを求めることによって特徴づけられる。これについては,多くの若者文化の特徴であるドラッグの使用やリスキーな性的行動など,宿命論的でディオニュソス的な類の行動を思い浮かべればいいだろう 94)

様々なタイプのゲームやメディアの場合と同様に,ポストモダン社会の特徴をなすアイデンティティの4つの側面はしばしば様々に遊戯的な仕方で重なり合い,結びつきあっている。例えば人生を運任せのギャンブルのようにこなすために,ひとびとは他の遊びの型のどれかひとつに対応する諸々の戦略を採用するだろう。例えばひとはアゴンの領域にアレアを引き込むことで予測不可能な人生に対する統御力を取り戻そうとするかもしれない。ミミクリ的な〈見せかけ〉の生活を送ることで特定の状況をひた隠しにしようとするかもしれないし,あるいはイリンクス的なスリルの追求に逃げ込むことでそういった状況を逃れようとするかもしれない。そして武術教室のボディビルダーはしばしば,同業者との試合に携わるだけでなく,公共の場で自分の筋肉を披露したがるし,ステロイド系薬剤を使うといった危険を冒そうとすることもある。

これら互いに絡み合う諸側面のそれぞれにおいて,遊戯的なペルソナは,遊び(第2節)や遊戯的メディア(第3節)について分析するなかでホイジンガとともに記述した諸々の両義性に直面している。まず,これら遊戯的ペルソナたちは現実と仮象の間を常に揺れ動いている。それらは,まさしく自分は自分自身なのだと称することで,自らの役割を演じているのだが,しかし同時にその役割演技はどこまでも真面目なものであって,それ自体として独自の現実となるのである。そのうえそれらが携わっている競争は「単なる遊び」ではなく,現実生活での結果を何かしら伴うものである。それから第二に,遊戯的アイデンティティは自由と強制力の間でも絶えず揺れ動く。それらは自らに降りかかる偶発事を戯れにあしらってみせるのだが,しかし同時にそうした偶発事の事実性を逃れ去ることはできない。それらは自由において自らを表現するが,その実メディアの課す拘束を常に経験している。そしてそうしたメディアそれ自体が市場経済の,等質的で世界規模の強制力に従属しているのである。さらに〔第三に〕これまでの世代が経験してきた以上に根底的な意味で,遊戯的アイデンティティは確定性と変化の間を揺れている。遊戯的ペルソナとして,それらは絶えず仮面を交換しつづける能力を享受しているのだが,それでもなお,自らの主体性の中核においては,休息への恒久的な切望を感じているのである。そして最後に,遊戯的アイデンティティはその個別性と集合性の間を絶えず揺れ動いている。遊びにおいて彼らのアイデンティティはその最内奥の主体性を表出するのだが,しかしその際,彼らは他者になりたいという模倣の欲望に常に従ってもいるのだ 95)。そして何よりも彼らは,ゲームが彼らを受け入れるのと同じくらいに誠心誠意ゲームを受け入れているのである。

 

1)ジョス・デ・ムル(Jos de Mul)エラスムス大学哲学部教授は,当大学の「情報・コミュニケーションテクノロジーの思想」研究所所長も務め,テクノロジーの時代における哲学的人間学,芸術と文化の哲学を専門領域としている。2009 年には前国際美学会会長としてアムステルダムで “Gimme Shelter:

Global Discourses in Aesthetics” を開催した。主著には Romantic Desire inPostModern Art and

Philosophy(State University of New York Press, 1999), The Tragedy of Finitude. Diltheys Hermeneutics of

Life(Yale University Press, 2004)などがあり,2003 年に,優秀な哲学書に与えられるソクラテス賞を受賞した Cyberspace Odyssey, Towards a Virtual Ontology and Anthropology( Klement, 2002)は,英語訳(Cambridge Scholars Publishing, 2010)を始めとして数カ国語に翻訳されている。

2)V.J. Rideout, U.G. Foehr and D.F. Roberts, “Generation M2: Media in the Lives of 8- to 18- Year-Olds” (Menlo Park, CA: Kaiser Family Foundation, 2010), 2-3.

3)Victoria Jen, “South Korea Aims to Make Online Games a Key Driver for Economy”, Channel News Asia,

2 June, 2010, http://www.channelnewsasia.com/stories/eastasia/view/1060450/i/.html, accessed 10

December 2012. しかしながらこのような発展の不都合な点は,ごく少数のプレイヤーがオンラインゲー

ム中毒に苦しんでいることである。See, “S[outh] Korean Dies after Games Session”, BBC News, 10

August 2005, http://news.bbc.co.uk/2/hi/ technolo- gy/4137782.stm, accessed 10 December 2012。4)Britta Neitzel and RolfF. Nohr, eds, Das Spiel Mit Dem Medium. Partizipation-Immersion-In- teraktion (Marburg: Schuren, 2006), 9.

  • Jeremy Rifkin, The Age of Access: The New Culture of Hypercapitalism, Where All of Life Is a Paid- for Experience(New York: J.P. Tarcher/Putnam, 2000), 263. Cf. Julian Dibbell, Play Money: Or, How I Quit My Day Job and Made Millions Trading Virtual Loot(New York: Basic Books, 2006).
  • Zygmunt Bauman, Life in Fragments: Essays in Postmodern Morality(Oxford: Blackwell, 1995), 99.
  • Friedrich Schiller, On the Aesthetic Education of Man, trans. Reginald Snell(Mineola, NY: Dover Publications, 2004), 80.
  • Kostas Axelos, Vers la pensée planétaire; Le devenir-pensée du monde et le devenir-monde de la pensée(Paris: Editions du Minuit, 1964). Cf. Lourens Minnema, “Play and(Post)Modern Culture: An Essay on Changes in the Scientific Interest in the Phenomenon of Play”, Cultural Dynamics 10.1(1998): 21.
  • Karl Sigmund, Games of Life: Explorations in Ecology, Evolution, and Behaviour(Oxford: Oxford University Press, 1993).
  1. John Von Neumann and Oskar Morgenstern, Theory of Games and Economic Behavior(Princeton: Princeton University Press, 1944); cf. Robert Leonard, Von Neumann, Morgenstern, and the Creation of Game Theory: From Chess to Social Science, 1900-1960(New York: Cambridge University Press, 2010).
  2. Gregory Bateson, “A Theory of Play and Phantasy”, in Steps to an Ecology of Mind, ed. Gregory Bateson (New York: Ballantine, 1955). Gregory Bateson, “Play and Paradigm”, in Play: Anthropological Perspectives, ed. M.A. Salter(NewYork: Ballantine, 1977).
  3. Julian Dibbell, “The Chinese Game Room: Play, Productivity, and Computing at Their Limits”, Artifact 2.3 (2008): 1-6.
  4. Elmer Dayton Mitchell, Bernard Sterling Mason and Wilbur Pardon Bowen, The Theory of Play(New

York: A.S. Barnes and Co., 1934); Caillois, Man, Play, and Games; Elliott M. Avedon and Brian SuttonSmith, The Study of Games(Huntington, NY: R.E. Krieger, 1979); J. Raessens and J. Goldstein, eds, Handbook of Computer Game Studies(Cambridge, MA: MIT Press, 2005).

  1. Warren Motte, “Playing in Earnest”, New Literary History40(2009): 26.
  2. Motte, “Playing in Earnest”.
  3. 以下は英語版からの引用であるが,英訳が不正確あるいは不完全である場合には,我々はオランダ語

原版からの拙訳を提示する(as reprinted in 1950 in J. Huizinga. Verzamelde Werken(Haarlem: H.D.

Tjeenk Willink & Zoon N.V., 1950), volume 5.

17)J. Huizinga, Homo Ludens: A Study of the Play-Element in Culture(Boston: Beacon Press, 1950), ix.

  1. Huizinga, Homo Ludens, 173.
  2. Caillois, Man, Play, and Games, 4.
  3. オランダ語のフレーズ “niet gemeend” が “not serious〔真面目でない〕” と不正確に翻訳されていたためここでは英訳には従わない。
  4. Huizinga, Homo Ludens, 13; see also the variations of this definition on the pages 28 and 132.
  5. Ibid., 6-8.
  6. Ibid., 9.
  7. Ibid., 5.
  8. Ibid., 26.
  9. Ibid., 23.
  10. Ibid., 9.
  11. Ibid., 28.
  12. Ibid., 28.
  13. Ibid., 132.
  14. Ibid., 10.
  15. Ibid., 11.
  16. Ibid.
  17. Ibid.
  18. Ibid., 10.
  19. Ibid., 25.
  20. Ibid., 75.
  21. Ibid.
  22. Caillois, Man, Play and Games, 11-36.
  23. Huizinga, Homo Ludens, 75.
  24. Ibid., 206. 42)Ibid., 199.
  1. Ibid., 199.
  2. Ibid., 206.
  3. Ibid., 199.
  4. Ibid., 199-200.
  5. Ibid., 205.
  6. Ibid.
  7. オランダ語版でホイジンガは小児症を以下のように説明している : “Het betrof voor een groot deel gewoonten die hetzij veroorzaakt of in de hand gewerkt worden door de techniek van het moderne geestelijk verkeer. Daaronder valt bijvoorbeeld de gemakkelijk bevredigde maar nooit verzadigde behoefte aan banale verstrooiing, de zucht tot grove sensatie, de lust aan massavertoon”. Huizinga, Homo ludens. Proeve eener bepaling van het spelelement der cultuur, in Huizinga, Verzamelde werken(Amsterdam: H.D.

Tjeenk Willink & Zoon, 1950), 226.

  1. Huizinga, Homo Ludens, 9.
  2. Ibid., 25.
  3. Ibid., 10. Cf. Gadamer’s analysis of play, in which it is emphasized that “Alles Spielen ist ein Gespieltwerden”(Hans-Georg Gadamer, Wahrheit und Methode. Grunzüge einer Philoso-phi- schen Hermeneutik, in Gesammelte Werke I [Tübingen: J.C.B. Mohr, 1986], 112).
  4. Ibid., 114.
  5. Jacques Ehrmann, “Homo Ludens Revisited”, Yale French Studies 41(1968): 33.
  6. Eugen Fink, “The Oasis of Happiness: Toward an Ontology of Play”, Yale French Studies 41(1968): 19.
  7. Huizinga, Homo Ludens, 18.
  8. Helmut Plessner, Die Stufen des Organischen und der Mensch. Einleitung in die philosophische Anthropologie(Frankfurt: Suhrkamp, 1975), 288ff.; cf. Jos de Mul, “Digitally Mediated(Dis)Embodiment: Plessner’s Concept of Eccentric Positionality Explained for Cyborgs”, Information, Communication & Society 6.2(2003): 247-266.
  9. Fink, “The Oasis of Happiness”, 23.
  10. Lourens Minnema, “Play and(Post)Modern Culture: An Essay on Changes in the Scientific Interest in the Phenomenon of Play”, Cultural Dynamics 10.1(1998): 25.
  11. Victor Witter Turner, The Ritual Process: Structure and Anti-Structure(Chicago: Aldine Pub. Co., 1969).

Cf.: J. Kücklich, “Play and Playability as Key Concepts in New Media Studies”, http://www.playability.de/

Play.pdf, accessed 1 October 2010. See also Minnema, “Play and(Post)Modern Culture”, and De Mul, ‘The Work of Art in the Age of Digital Recombination”, in Digital Material: Anchoring New Media in Daily Life and Technology, ed. J. Raessens, M. Schäfer, M. v. d. Boomen, Lehmann and S. A.-S. & Lammes (Amsterdam: Amsterdam University Press, 2009), 95-106.

  1. Cf. Arnold van Gennep, The Rites of Passage(London: Routledge & Kegan Paul, 1960); Victor Witter Turner, From Ritual to Theatre: The Human Seriousness of Play(New York: Performing Arts Journal Publications, 1982).
  2. Erkki Huhtamo, “Slots of Fun, Slots of Trouble: An Archaeology of Arcade Gaming”, in Handbook of Computer Games Studies, ed. J. Raessens and J. Goldstein(Cambridge, MA: MIT Press, 2005), 3.
  3. Donald A. Norman, The Psychology of Everyday Things(New York: Basic Books, 1988), 9.
  4. 我々は何も,これらの諸原理がもっぱらデジタルメディアにのみ遡及され得ると主張しているのでは

ない。 cf. Joost Raessens, “Computer Games as Participatory Media Culture”, in Handbook of Computer Games Studies, ed. J. Raessens and J. Goldstein(Cambridge, MA: MIT Press, 2005), 373-374.

  1. コンピュータ・コード(の解釈)への関心の集中は,人文学における新興の領域である「批判的コー

ド研究〔critical code studies〕」の一部を成す。 Lev Manovich, on the other hand, prefers the more general term “software studies”(Lev Manovich, Software Takes Command [2008], 14, www. soft- warestudies.com/softbook).

  1. De Lange, Moving Circles: Mobile Media and Playful Identities(Rotterdam: Erasmus University, 2010) 165.
  2. Manuel Castells, The Information Age: Economy, Society and Culture. Volume I: The Rise of the Network Society(Oxford: Blackwell Publishers, 1996), 373-375.

68)A. Cameron, “The Future of an Illusion: Interactive Cinema”, 33, http://mfj-online.org/ journalPages/ MFJ28/ACINTRO.HTML, accessed 10 December 2012.

  1. Cf. Katie Salen and Eric Zimmerman, Rules of Play: Game Design Fundamentals(Cambridge, MA: MIT Press, 2004), 60.
  2. Cf. Jeroen Hugo Timmermans, Playing with Paradoxes: Identity in the Web Era(Rotterdam: Erasmus University, 2010), 189.
  3. Cf. Daniel Cermak-Sassenrath, Interaktivität als Spiel. Neue Perspektieven auf den Alltag mit den Computer(Bielefeld: [transcript] Kultur- und Medientheorie, 2010), 129-153.
  4. Huizinga, Homo Ludens, 28.
  5. Cf. Hector Rodriquez, “The Playful and the Serious: An Approximation to Huizinga’s Homo Ludens”, The International journal of Computer Game Research 6.1(2006).
  6. Cf. Joost Raessens, “A Taste of Life as a Refugee: How Serious Games Frame Refugee Issues”, in Changes in Museum Practice: New Media, Refugees and Participation, ed. K. Good- now and H.-L. Skartveit(Geneva,

UNHCR, 2010). 「真面目なゲーム〔serious games〕」という語は,「文字通りの意味では矛盾語法であるために,批判を受け易いだろう。つまり,ゲームとは本質的に楽しいものであって,真面目なものでは

ないのだ。」(U. Ritterfeld, M. Cody and P. Vorderer, “Introduction”, in Serious Games: Mechanisms and Effects, ed. U. Ritterfeld, M. Cody and P. Vorderer(New York: Routledge, 2009), 3.

  1. Roger Silverstone, Why Study the Media?(London: Sage, 1999), 59.

76)J. David Bolter and Richard A. Grusin, Remediation: Understanding New Media(Cambridge, MA: MIT Press, 1999), 197.

  1. Bolter and Grusin, Remediation, 196-210.
  2. Aphra Kerr, Julian Küchlich and Pat Brereton, “New Media - New Pleasures?”, International Journal of Cultural Studies 9.1(2006): 64.
  3. Kerr, Küchlich and Brereton, “New Media - New Pleasures?”, 69-70.
  4. Timmermans, Playing with Paradoxes, 134.
  5. Roger Silverstone, Why Study the Media?(London: Sage, 1999), 61.
  6. Silverstone, Why Study the Media?, 61.
  7. Stuart Hall, “Encoding/Decoding”, in Culture, Media, Language: Working Papers in Cultural Studies, ed. S. Hall, D. Hobson, A. Lowe and P. Willis(London: Hutchinson, 1996), 128-138.
  8. Henry Jenkins, Convergence Culture: Where Old and New Media Collide(New York: New York University Press, 2006), 133. Cf. José van Dijck and David Nieborg, “Wikinomics and Its Discontents: A Critical Analysis of Web 2.0 Business Manifestos”, New Media & Society 11.5(2009): 871.
  9. Michiel de Lange, Moving Circles: Mobile Media and Playful Identities(Rotterdam: Erasmus University, 2010), 215.
  10. Félix Guattari, The Three Ecologies(London: The Athlone Press, 2000), 61.
  11. Cf. Julian Küchlich, “Play and Playability as Key Concepts in New Media Studies”, http:// www. playability.de/Play.pdf, accessed 10 December 2012.
  12. Cf. Imar de Vries, “Tantalisingly Close: An Archaeology of Communication Desires in Discourses of Mobile Wireless Media”, Ph.D. dissertation, Utrecht University, 2008.
  13. Bolter and Grusin, Remediation, 197.
  14. Jenkins, Convergence Culture, 282.
  15. Bolter and Grusin, Remediation, 45.
  16. Guy Debord, La Société Du Spectacle(Paris: Buchet-Chastel, 1967).
  17. Anthony Giddens, Modernity and Self-Identity: Selfand Society in the Late Modern Age(Cambridge: Polity Press, 1991), 131. Cf. Jos de Mul, Toeval. Inaugurele Rede(Rotterdam: Rotterdamse Filosofische Studies, 1994).
  18. Michel Maffesoli, “The Return of the Tragic in Postmodern Societies”, New Literary History 35.1(2004):

133-149; Michel Maffesoli, Linstant éternel: Le retour du tragique dans les sociétés postmodernes(Paris:

Denoël, 2000).

  1. René Girard, Mensonge romantique et vérité romanesque(Paris: B. Grasset, 1961).

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