ジョス・デ・ムル . 総合的チューリング・テスト ─日本的観点およびヨーロッパ的観点からロボティクスを考える─ [Jos de Mul, The Total Turing Test. Robotics from Japanese and European perspectives]. Ritsumeikan Studies in Language and Culture. Vol.31 (2020), Vol.32, no.2, 95-107. [English version]
国際言語文化研究所後援
2019 年 10 月 8 日開催 ジョス・デ・ムル氏 招待講演
「トータルチューリングテスト:日本と西欧におけるロボティクスの見解」総合的チューリング・テスト
─日本的観点およびヨーロッパ的観点からロボティクスを考える─
ジョス・デ・ムル
翻訳:田邉健太郎
立命館大学大学院社会学研究科を再び訪れることができたのは,大変光栄であり,喜ばしいことである。2016年に客員教授として滞在した時の素晴らしい思い出がよみがえる1)。日本人の同僚―特に,風景と空間についてのプロジェクトで過去に共同研究をしていた仲間裕子教授―と働き,担当していた立命館の学生と,現代の高度技術社会における人間の条件を理解するためにギリシャ悲劇の有効性について議論したことは,大変に有益だった。2016年の滞在時には,同時に,関西圏のアンドロイド・ロボットについて研究もしていた。特に興味深かったのは,関西文化学術研究都市にある株式会社国際電気通信基礎技術研究所(ATR)内の石黒浩研究室を訪れたことである。
風景,悲劇,ロボットという主題はそれぞれ異なっているものの,私の研究は比較というアプローチを採っており,これら三つの領域で西洋と東洋を架橋し,特に日本的視点とヨーロッパ的視点を結びつけた。それぞれの領域で,私は根本的創意とともに,顕著な類似性を見つけた。今日の講義では,このことを示すために以下のことを議論したい。すなわち,ロボットに対するアジア的見方や態度とヨーロッパ的なそれのあいだにある類似性と相違点を,いわゆるチューリング・テスト出発点に据えて考える。
始めの部分では,チューリング・テストが重要な役割を果たす近年の三つの SF 映画を分析する。それらはフィクションであるものの,ロボットに対する西洋的な見解の特徴を明らかにしている。第二部では,チューリング・テストへの西洋的アプローチと日本のロボット工学,とりわけ社会的アンドロイド・ロボットのアプローチを比較する。石黒浩の「エリカ(ERICA, ERato Intelligent Conversational Android)」が主たる事例である。第三部そして最後の部では,最終分析に基づき,西洋と東洋のロボット工学におけるアプローチの違いは,異なる宗教的世界観と結びついており,世俗的世界でさえ根本的レベルでロボットや AI を形成していると論じる。
ロボットへの西洋的な恐れ
さて,ロボットは工場で見つけることができるだけではなく,いまや社会のなかに(たとえばケア・ロボットして)導入され,軍事兵器(たとえばドローンのように)として用いられている。西洋におけるロボットへの潜在的恐怖は,新聞や雑誌のヘッドラインをますます賑わせることだろう。2016年,オックスフォード大学のマイケル・オズボーン准教授は,今後20年以内に,我々の仕事の50%をロボットが担うようになると予測した2)。科学者は,人間が介在することなしに,標的を選び,攻撃する完全な「自動化されたドローン」の開発について憂慮する3)。そして,2015年1月には,著名な有識者たち―有名な物理学者スティーヴン・ホーキング,アントンプレナーのイーロン・マスク,DeepMind の共同創設者デミス・ハサビス,人間未来研究所所長ニック・ボストロム,グーグルの研究部長ピーター・ノーヴィック,ハーバード大学のコンピューター・サイエンス教授デヴィッド・パークスを含む―が,研究者に人工知能の潜在的「陥穽」を注意深く避けるよう求める署名にサインした4)。BBC のインタビューで,スティーヴン・ホーキングは,優れた人工知能が人類を終わらせるかもしれないと警告した5)。
そうした変化には時間がかかることを信じている人は,誰であれ,次のニュースに驚くことだろう。すなわち,2014年に,歴史上はじめて人工知能がチューリング・テストをパスしたというニュースである6)。このテストは,人工知能が,自然の(人間の)知能と見分けがつくかどうかを確かめる。このテストは,1950年に,優れた数学者であり,プログラムできるコンピューターを発明したアラン・チューリングにより考え出された7)。彼は,人工知能(AI)8)の分野のパイオニアの一人であり,ナチスの秘密コードを解明した一人である9)。
2014年,前述した功績が,映画『イミテーション・ゲーム』の主題となった。しかし,チューリングの「イミテーション・ゲーム」またはチューリング・テストが登場するのは,この映画に限られない。このテストは,同時期に公開された三つの SF 映画で重要な枠割を果たしている。
『her/ 世界でひとつの彼女』(2013),『エクス・マキナ』(2015),『アンキャニー・不気味の谷』(2015)である。これらの映画は,人間と人間のように見えるロボット(すなわちアンドロイド)との恋愛を描いている。それぞれの映画では,アンドロイド・ロボットの知性と人間の知性が区別可能かどうかというチューリングの問いを扱っており,それぞれ人間の主人公にとって,悲劇的とはいえないまでも,まずい形で進行していく。
チューリング・テスト
三つの映画を分析する前に,チューリング・テストについて少し説明したい。1950年の論文「計算する機械と知性」において,チューリングは次のように論文を始めた―「機械は考えることができるか」という質問は,答えることが非常に難しい。なぜならば,「考えること」という語の意味は何かということについて,哲学者の間で合意が存在していないからである10)。さらに,コンピューターの「内面」に我々はアクセスできない。チューリングによれば,これは人間にも当てはまるものだ。結局のところ,知的精神あるいは活動的意識が存在するかどうかを確定するために,我々は隣人である人間の頭のなかを見ることはできないのである。こうした理由により,それが知性をもつかどうかを確定するためには,機械の行動を見るのが良いとチューリングは考えた。
チューリングは三人のプレイヤーに対する「イミテーション・ゲーム」について書いている。男性と女性がひとつの部屋にいて,もう一人の対話者が別の部屋にいる。彼らはノートを通して会話する。対話者は,二人のうちどちらが女性であるかを知る手掛かりとなる問いを出す。女性は全ての質問を正しく答えなければならないが,男性は質問者を騙さなければならない。
1950年版イミテーション・ゲームでは,チューリングは男性と知性的機械を取り換えて,女性のふりをさせた。通常スタンダードなものとして言及される後年の版では,男性と女性が人間とコンピューターに置き換えられる。課題は,誰が人間であり,「誰」が機械であるかを決めることだ。人間のほうは質問者を助け,「知性的機械」は質問者を騙さなければならない。この場合,テレプリンタを通してコミュニケーションが行われる。このテストにパスするために,知性的機械―それはコンピューター・プログラムによって動かされている―は,少なくとも30%の質問者を,5分間自身が人間であると騙すことができなければならない。チューリングは,このテストを機械がパスできるためには50年かかるだろうと予測した。すなわち,2000年である。この予測はそれほど外れていなかった。2014年に,最初のコンピューター・プログラムがテストをパスした。
チューリング・テストに疑問の余地がないとはいえない。会話ができることは,人間の知性のあまりに狭い理解ではないだろうか。チューリングはまた,知性的機械を作る最良の方法は,感覚と四肢を備え,世界を訪ね,経験から学ぶ完全な人間をつくることであると考えた。しかし,たとえそうした人工的人間が実現されるとしても―そのことは,1948年のチューリングの論文で,「知性的機械」は「人工脳」の絶対的サイズゆえに現実的ではないとされていた―,「そのような生物は食べ物や,セックスや,人間が関心をもつ多くのものと交わらないだろう」11)。
チューリング・テストに対する最も根本的な批判は,そのテストが知性を試すものではなく,知性の幻覚を生み出すかどうかについてのものだ,すなわち質問者に対して彼あるいは彼女が人間を相手にしているという感情を生み出すものだ,というものである。それゆえ,チューリングは,知性という観念を「数学的というよりも感情的」12)と言ったのではないか。結局,人間の質問者を騙すことがコンピューターの仕事であるように,騙すということがすでにイミテーション・ゲームのなかに染み込んでいるのではないか。
この点から考えると,チューリングの人生を描いた映画のタイトル『イミテーション・ゲーム』は,チューリング・テストが映画のなかで役割を果たしていないという事実にもかかわらず,うまく選ばれている。チューリングによりデザインされた「知性的機械」がナチス・ドイツの暗号を解明したのち,イギリス人はドイツ人を騙さなければならなかった。敵が暗号を知っているとわかると,ドイツ人はすぐにそれを変更するため,それを防ぐために騙さなければならなかったのである。チューリングは,それゆえ,彼の使用人の一人の兄弟が乗っている船に,攻撃が迫っているという警告を与えることを拒否したのだった。チューリングがかかった死とかかわるゲームは,これだけではない。法で禁じられていたために,チューリングはヘテロセクシャルとしてふるまうことを強いられた。逮捕されたのち,彼は牢獄へ行くか,化学的に去勢することを強制された。彼は去勢を選択し,女性化した乳房をもつようになった。これが最後の「イミテーション・プレイ」であった。わずか42歳で,彼の大好きな映画『ディズニーの白雪姫』と同じ道を選び,毒リンゴを口にして彼は自殺した。チューリングにとっての不幸は,目覚めさせてくれる王子がいなかったことだ。
おそらく,策略と欺きに基づくがゆえに,チューリング・テストは我々をこれほど魅了し続けているのである。1990年以降,ヒュー・ローブナーは,チャットボットが人間であると審査員を確信させることを試みる年次大会を開催している。この知性テストは限定的であるにもかかわらず,2014年に至るまで,審査員を騙せたチャットボットは存在しなかった。だがその年,ロシアのチャットボット,ユージン・グースマンが,テストの30%以上で,このチャットボットが人間であると審査員を5分間以上確信させる(チューリングの基準)ことに成功した。だが,批判者は,これはトリックによるものだと述べている。すなわち,チャットボットは自身を13 歳のウクライナ人の少年と自称しており,英語を第二外国語として学んだだけと述べていたからである 13)。質問者は,実際は,「デジタル・ダミー」によって騙されていたのである。なかには,このチャットボットは不公平であり,ユージン・グースマンはチューリング・テストをパスしていないのだと批判する人もいた。
近年のSF映画におけるチューリング・テスト
しかし,そのロシア人は,まさにチューリング・テストが想定したことを行ったのだろう。チューリングは,欺く能力が知性にとって重要な質であると推測していたが,それは正しかった。少なくとも,近年の三つの SF 映画を見ると,このような印象を抱くのは避けがたい。『her/ 世界でひとつの彼女』の主題は,自分を騙すことである。この映画は,孤独なセオドアが,サマンサと呼ばれる彼の人工知能 OS(スカーレット・ヨハンソンが声を演じている)に恋する話である。彼女は「Siri」(Apple)や「Cortana」(Windows10)のようなヴァーチャル・アシスタントの未来バージョンであるように思われる。サマンサが単なるコンピューター・プログラムだと知るので,セオドアが OS に恋するということは素朴であるように思われる。だが,相互活動的装置に対して我々が愛着を感じるということは,よく知られた事実である。とくに,(たまごっちのように)それに注意を向ける必要があるとき,あるいは老人に感情を表現するゾラのようなケア・ロボットを考えるとき,そうした愛情は顕著だろう。それが人工的であることを知らなければ,そうした傾向はより強固なものになるだろう。たとえば,アメリカの心理学者であり,チューリング・テストのスペシャリストであるロバート・エプスタインに,こうしたことが生じた。『サイエンティフィック・アメリカン』に掲載された面白い論文の中で,彼はデートサイトを通じてロシアの少女と恋愛に満ちたやりとりをしたと書いている。だが4カ月後,彼は疑問をもち,きれいなイヴァナに次のようにメールした。「asdf; kj as; kj I; jkj; j; kasdkljk; klkj KLASDFK; Asjdfkj. With Love, Robert」。イヴァナが母親についてかわいらしく返信した時,エプスタインは「彼女」が本当はチャットボットであり,彼は詐欺の犠牲者であり,「修正された賢いプログラミング」14)の犠牲者であることにとうとう気づいたのだ。
『エクス・マキナ』でも,自分を騙すことが主題だと思われる。この映画では,検索エンジンで有名な企業「ブルーブック(Bluebook)」でソフトウェア・プログラマーとして働くケイレブが会社の奇妙な創業者に招かれ,美しい女性ロボットのエヴァとともに変形版チューリング・テストの実験台となる。エヴァはとりわけ魅力的な身体をもち(この映画は男性の幻想である),その透明な部分からは機械の内部が見える。エヴァがロボットであることをケイレブは知っているにもかかわらず,本当の感情をもっていると彼女は騙すことができるのだろうか。恋をしているケイレブはチューリング・テストに失敗する。彼は見えておらず,『her』のセオドアのようにまずい結果となる。しかし,エヴァがアンドロイドのファム・ファタル(Femme fatale)になり,制作者であるネイサン(彼は現代の青ひげ公として,ロボットの性奴隷を支配している)を殺害するという事実は,エヴァの感情が本物であるのかという不気味な問いを引き起こす。そして,未来においてそれが判明する可能性があるのかという,より不気味な問いも引き起こされるのだ。
未来において,もはや人間とロボットの区別がつかないと考えることは,『アンキャニー・不気味の谷』の主題である。『エクス・マキナ』と同様に,『アンキャニー』でも登場人物の一人
―この場合,女性の科学ジャーナリスト・ジョイ(以前は人工知能を研究する学生だった)
―は,デヴィッドという悪しき天才によって,感情のチューリング・テストを一週間受けさせられる。ジョイは男性のアンドロイド・アダムと対面する。彼は,消化器官も有しており,人間と区別がつかない。『エクス・マキナ』と同様に,性的魅力が重要な役割を果たす。だが,『アンキャニー』は『エクス・マキナ』の対位法でもある。というのも,『アンキャニー』では男性のアンドロイド・ロボットが登場し,ロボットのほうから愛が芽生えるからだ。ジョイがデヴィッドと恋に落ちるとき,アダムは抑圧された嫉妬に基づく行動を示し,チューリング・テストは奇妙なねじれを示す。同映画を見ていない人に対して,この驚くべき筋をネタばらししたくはないが,ジョイが90分間騙されるのみならず,観客もまた騙されることは確かだ。
チューリング・テストの起源
チューリング・テストはコンピューターの時代と結びついているが,数世紀前に機械人形が同様の問題をすでに提起していた。たとえば,17世紀には,デカルトが機械のアヒルと他の自動機械を前にして,完全な動く機械人形と人間をいかに区別するか考えていた 15)。デカルトは,そうした人形が有意味な会話を遂行しえないと確信していたが,コンピューターや人工知能,話すロボットの発明により,そうした確信はもはや通用しなくなった。
人工知能が我々に多大な恐怖を引き起こす根本的理由は,おそらく,人間という種のナルシズムを辱めることにある。我々が神に作り出された例外的存在ではなく,類人猿の霊長類的起源をもつ存在であることを,ダーウィンは説得的に論じた。今やロボットは,人間と生命なき物質の区別をあいまいにしている。幸い,それらは全て SF 映画で起きていることであって,実世界ではユージン・グースマンのようなデジタル・ダミーが大勢を占めている。もし人間知性の複雑さを考えるならば,当面自体は同じままだろう。
だが,デジタル世界のグースマンは,すでに我々を「テスト」し始めていた。たとえば,「キャプチャ(Captcha, Completely Automated Public Turing test to tell Computers and Humans Apart)」を考えてみよう。それは,あなたが人間かロボットかを確かめるために,文字あるいは数字を打ち込むように求めるウェブサイト上のプログラムである。
そうしたアルゴリズムを用いることが,生活の中でますます増加することは明らかだ。ホーキングと違い,近未来でさらに優れた知性により我々が凌駕されることを,私はそれほど恐れていない。むしろ,劣った人工知能によって支配されることを,私は恐れる。そして,人間が絶滅したのち,それらは終わりのときまで,考えることなく再生産を繰り返すだろう。
これは,西洋的な,あまりにも西洋的な不安,先入観だろうか。
アジア的な代替案?
2016年,立命館大学で客員教授を務めているとき,ロボットへの日本的アプローチを学び始めた。ヨーロッパと同様,日本でも自動機械に対して早くから興味が芽生えていた。だが,ヨーロッパではそうした人間のようなアンドロイドはそれほど有名にならなかった一方で,日本(とりわけ関西圏)ではアンドロイドに強い関心が寄せられている。『生まれながらの人工性―ホモ・サピエンス3.0への道』を執筆している間,日本人のアンドロイドへの関心に興味を持つようになった。そして,京都滞在中に,株式会社国際電気通信基礎技術研究所(ATR)の一部門である石黒研究室を訪ねた。
石黒浩は大阪大学基礎工学研究科システム創成専攻の教授であり,ロボット工学分野で最も有名な研究者の一人である。彼は,彼の双子ロボット「ジェミノイド HI-1」(ラテン語で双子を意味する Gemini に由来する。www.geminoid.jp を参照)により,世界的な名声を獲得した。最初の訪問は,このジェミノイドと,最新モデルであるコミュニケーション・ロボット「エリカ」のデモンストレーションへの参加だった。
ジェミノイド HI-1は,実際は遠隔ロボットと呼ばれている。それは独立して動くのではなく,人間(このケースでは石黒本人)によりリアルタイムでコントロールされており,様々なアーティストとコラボレーションを行った。それはメタルの骨格とプラスチックの頭蓋骨をもち,とりわけシリコンの皮膚と(石黒自身の)人間の髪の毛は,Hl-1に不気味なほどの現実感を与えている。動き―石黒の双子は50の異なる動きと表情をもっている―は,空気圧縮機と空気圧式アクチュエーターによって生み出される。それは,別の部屋にいる石黒の動きと同時に生じる。彼の動きは,追跡装置や遠隔操作ソフトウェアにより,翻訳される。ジェミノイドのなかのマイクとスピーカーを使って,石黒は話すこともできる。また,ロボットのセンサーやカメラを使って,ロボットの環境を石黒も経験できる。
機械の双子やその他のものを用いて,大学その他の場所から,石黒は授業をすることもできる。だが,このような実用的利用―それは公共的関係をうまくこなしている―は,石黒のロボット科学の一面に過ぎない。彼はジェミノイドを,人間-ロボットの相互行為やテレプレゼンスの分野での(神経)心理学的実験にも用いているのである。特筆すべき知見の一つは以下のものだ。すなわち,双子ロボットが触れられたとき,触覚的フィードバックなしでも物理的感覚を経験することができるということだ。おそらく,ミラー・ニューロンがこの現象で重要な役割を担っているのだろう。他者の行為を見るとき,行為者において活性化しているものと同じ神経パターンがトリガーされる。これは,他者への共感的情動(empathic feeling)を引き起こすのみならず,ロボットの身体を同定し,彼らの身体的スケジュールのなかに,ロボットの身体を文字通り含めるのだ。
石黒の遠隔ロボットは,哲学的人類学者ヘルムート・プレスナーが「人間の脱中心的位置性(the excentric positionality)」と呼ぶものを物理的に実現している 16)。プレスナーによれば,我々は身体に対して三重の関係性をもっている。植物のように,我々は身体であり(444),動物のように,経験の中心を構成する神経システムや脳のおかげでコントロールできる身体を我々はもっている。しかし,我々は脱中心的位置から自身を反省できるという意味で,我々の身体の外に自身を位置づけられるので,人間と他の動物は区別されるのだ。日常生活で家でソファーに腰掛けながら,遠隔ロボット(カメラ,マイク,人工感覚を備えている)を通じてマンハッタンを歩き,燃えている部屋から人を助け出し,火星の上を歩いていることを想像できる一方で,現に今そうしたことをすることもできるのである。
ロボットの双子と相互行為をすることは,驚くべき経験だ。実際の石黒と極めて似ていること,また「ロボットの背後にいる人間」と語っているという事実ゆえに,ロボットを人間としてみなすようになっている。だが,機械的でステレオタイプの動きや表情が,なじみのパターンを崩してしまうように認知的不協和が生じる。
日本のロボット制作者である森政弘は,1970年の論文の中で,人間のように見えるという印象を与えるが,その類似性が極めて高いものの完全ではないとき(たとえば病者やホラー映画のゾンビやアンドロイドの身体を経験をするとき),親しみやすさはおぞましさ(disgust)に変形すると述べている 17)。論文内の図において,森はこの現象を「不気味の谷現象」と呼んでいる。英語では“Uncanny Valley”であり,ジークムント・フロイトの「不気味なもの」(ドイツ語では“Das Unheimliche”)に関するエッセイと結びつけられている。フロイトは,他のもののなかにある不気味なものと機械の双子を結びつけ,死への恐怖や抑圧された性的情動,ナルシスティックな全能感とそれを関連付けている。
しかし,石黒研究室を訪問時,私の関心はエリカに向かった。エリカはアンドロイド・ロボットだが,特定の人物のコピーではないという意味でジェミノイドではない。そうではなく,彼が美しいと考える30人の女性の写真を組み合わせて,コンピューター上でデザインされたものだ(フロイトを念頭に置くと,自然と前述の映画『エクス・マキナ』を考えざるを得ない)。エリカは自律型ロボットであり,直接のコントロールなしに周囲に働きかける。だが,「彼女」の自由は制限されている。石黒の双子と同様,彼女は歩くことができず,椅子に据え付けられてる。
これには理由がある。エリカ(Erato Intelligent Conversational Android の頭文字)は,さらなる問題をもたらすチャットロボットのアンドロイド版である。コミュニケーションが可能となるためには,エリカは対話者の声を聞くことができなければならない。しかし,複数の(エリカのデモンストレーションに参加している)人がいる騒々しい部屋の中で聴覚的に発話を認知することは,とりわけ難しい課題である。エリカは目に見えない複数のマイクやセンサーに結び付けられており,対話者が移動しているときでさえ,彼ないし彼女を指すことができる。
エリカの声はリアルタイムで合成されるが,彼女は問いや意見に反応することができるだけではなく,目で対話者を追っていき,顔で感情を示すことができる。これは,少なくとも,エリカのデモンストレーションに付き添ってくださった港隆史博士が私に語ったことだ。デモンストレーションに参加した日,参加者たちは大半が日本人であり,質疑はほぼ日本語で行われており,私は日本語が話せない。しかし,港博士がデモンストレーションについて私に説明した事実は,エリカを数度混乱させた。彼女は一度に一つの言語しか扱うことができないので,英語に言語を変化させたり応えることができないまま,数回私の対話に顔を向けた 18)。その後,私は港博士と,完全な会話ロボットを作成するための障壁について議論した。エリカが対話者に向ける注意は,全ての可能な主題について日常会話をさせる課題と比較すると,いまだ子供のふるまいである。彼女の能力は,(グーグル翻訳のように活用できる類似の対話をウェブのなかから探す)オープンドメイン会話システム,(ニューラル・ネットワークの最新版である)深層学習を活用しているので極めて優れているものの,エリカとできる会話の主題の数は,現状では極めて限定されている。したがって,彼女の趣味について話すことはできるが,他の多くの主題について,彼女は不慣れである(おそらく人間と同様に,年齢について尋ねられたときもそうである)。
総合的チューリング・テスト
有名なチューリング・テストをパスできる水準までエリカの性能を上げることが,石黒の願望である。思い出してほしいが,これは5分間少なくとも30%の対話者を欺くことができるということを意味している。2014年に,チャットボットのユージン・グースマンがチューリング・テストをパスしたように,これは現実的な目標のように思われる。
しかし,石黒の願望はさらに先を行っており,総合的チューリング・テストをパスできることを目標に設定している。キーボードとスクリーンを通じて対話が生じる伝統的なチューリング・テストとは異なり,これは(『エクス・マキナ』の中のロボット・エヴァのように)エリカの未来のヴァージョンを要求する。すなわち,同室の質問者が,彼女は実際の人間であると確信できなければならないことを要求しているのである。石黒がこれまで行った実験は,被験者の20%が,1秒以内にロボットを相手にしていると記録している。そして,私の考えでは,残りの80%は続く4秒のうちに記録するだろう。
ハイプ(Hype)も同様だ。デモンストレーションの後日,私は『ニューヨーク・タイムズ』誌で,エリカの大きな広告を目にした。そこには次のように書いてあった。「エリカに会おう。彼女は学校に行っておらず,DNA も持っていない。だがすぐに,みなさんより賢くなるだろう」。エリカから衝撃を受けた私だが,この「すぐに」が進化に相当する時間スケールであることをデモンストレーションは示している。石黒や彼のチームに対してチューリング・テストについて講義を行った数週間後,「不気味な谷」を乗り越え,総合的チューリング・テストをパスする可能性について,彼らはいかに楽観的に考えているのかということに,私は気づく。石黒の楽観性は全員に共有されていたわけではない。批判者たちは,プロジェクトの実現可能性のみならず,その有益性も疑っている。飛行機は鳥に似ずともうまく飛ぶことができるし,コンベアベルトはアンドロイド・ロボットが箱を運ぶよりもはるかに効果的だ。
私の講義に続くディスカッションで,アンドロイドがすべてのケースで最良の解決ではないことを,石黒はあっさりと認めた。だが,ロボットが社会に進出する場合,それらは最良の選択肢かもしれない。人間は進化の上で適応し,子どものうちから他者とかかわる訓練を積んでいる。石黒によれば,人間に似ているロボットは,ロボットと人間の円滑な相互作用を促進するのみならず,人間社会におけるロボットの受容も強化するものである。人間のように見えるものは,人間としてより一層扱われる傾向にある。『社会的ロボット工学の中の人間-ロボット交流』19)(2013)において,石黒は,美術館やショッピング・モール,駅でのアンドロイド型案内ロボットの利用実験を紹介している。それらの実験は,そのようなサービスが効果的であることを証明するのみならず,多くの大人や子どもがロボットと交流することを楽しんでいたことを示している。
ロボットは利用客の質問や好みを ID チップで覚えているので,ロボットとの「個人的紐帯」のようなものが存在し,少なくとも不気味の谷が生じないかぎり,愛着さえ生まれている。というのも,カトゥーン化されたロボットは,「写実的」アンドロイドの不完全さが引き起こす不快さを引き起こさないがゆえに,しばしばうまく機能するからだ。このことは,石黒や他のロボット工学者がデザインしたカトゥーン化されたケア用ロボット,コミュニケーション用ロボット ―それは老人のケアや教育や自閉症の人の案内を行う―が成功したことを説明する。オランダやベルギーにおいても,アリスや前述のゾラのようなカトゥーン化されたケア用ロボットが登場した。しかし,日本の事例との違いは非常に大きい。日本は世界で最もロボット化が進んだ社会である。25万以上の工業用ロボットが作業を行うのみならず,行政やビジネスの世界でも過去数十年のあいだに社会的なロボット使用や感情をケアするロボットが発展したことで,それらに数十億が投資された。ロボットはよく知られた存在だ。展示会で,自動点滅装置の衣服を身にまとい彼らは踊り,歌うし,テレビに登場する。ROBO ONE コンテストでは多くの人が挑戦する。1999年にロボット犬アイボが登場して以降,消費ロボットは値下げされている。カトゥーン化されたアンドロイド・ロボットのペッパーは,初めての感情ロボットとして現れ,
2015年にわずか1分で売り切れとなった。
2015年以降,長崎県ハウステンボスでは,愛好者は完全に(実用的に)ロボットが運営する『変なホテル』に滞在することができるし,『さようなら』という映画では石黒が作成した女性のジェミノイド -F が主導的役割を分担している。平田オリザの戯曲『さようなら』に基づくその映画は,福島をモデルにした放射能汚染のなかではぐくまれる人間とアンドロイドの友情を扱っている。東京国際映画祭では,そのアンドロイドは主演女優賞にノミネートまでされたのである。ロボット宇宙飛行士 KIROBO が国際宇宙ステーションで同伴することによって,こうした人間-ロボット間の友情モデルは,映画的想像力を凌駕することとなった。
日本人のロボットに対する愛情は,実践的な必要性に由来するとしばしば言われる。中国のような急速に発展するアジア諸国と競うためという理由で,経済的に,また社会的に必要というわけだ。日本は世界最長寿国であり,平均寿命を下げる移民は比較的少ない。結果として,介護や教育,他のサービス業での人材不足が,問題となっている。
しかし,実践的必要性だけでは,日本人がロボットに対して感情的な結びつきを抱くことを説明するのは不十分だと思われる。また,実践的必要性は,神道の神職にロボットの犬やアンドロイドを祝福させたり,仏教的な儀式で埋葬させるという行為を説明するにも十分ではない。そうした利用は,日本人がアンドロイドに対して抱いている固有の関係性が,ある点で西洋のものと大いに異なっており,彼らの世界観と切り離すことができないことを示唆している。
西洋のキリスト教によって形成された文化では,「神を演じること」はタブーである。人間は神によって自然の執事として命じられ,たとえそれに対して実験することは許されたとしても,生命,とりわけ人間の生命の創造は神の特権である。このタブーを犯す遺伝学者やロボット工学者は,最も世俗的な西洋社会でさえ傲慢さからくる行為としてすぐに非難され,キリスト教的伝統では致命的な罪の源だとされる。そして,ギリシャ悲劇が教えるように,傲慢は災害や破滅に至る。
ロボットを取りあげた西洋の SF の大多数が,性質上黙示録的であるのは,こうした理由による。『her/ 世界でひとつの彼女』『エクス・マキナ』『アンキャニー・不気味の谷』といった映画のバッド・エンディングについては先に述べたが,それらは例外ではなく,少なくともメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1817)までさかのぼることができ,『オデッセイ』(1968),
『ブレード・ランナー』(1982),『ターミネーター』(1984)などの象徴的な SF を特徴づけてもいる長い伝統である。そして,アンドロイドは人間の破壊に焦点を当てられるのが常である。人間に害を与えること禁じたはずの三つのロボット原則に基づき展開する最も有名なアシモフの話であっても,筋は常にそれを回避しながら進んでいく。そして,黙示録的な世界観は,フィクションに限定されない。先述したように,西洋の科学者たちは,ロボットが人間の仕事を奪うこと,ドローンが死や破壊を引き起こすこと,人間という種を支配し,果てにはそれに取って代わることに警告を発している。もっとも楽観的な立場,たとえば人間を超越するロボットやシンギュラリティに関するハンス・モラヴェック,レイ・カーツワイルなどの楽園的な「終わりのとき」のファンタジーであっても,もはや人間の場所は存在しないのである。
これと比べた場合,日本の SF におけるロボットのイメージは,常にはるかに好意的である。鉄腕アトムは1952年から1968年にかけて漫画に登場し,その後何度もアニメ化されたロボットであるが,これは敵ではなく,人間を救う存在である。彼らは,フロイトの「不気味なドッペルゲンガー」のような,人間の悪しき否定者とはならないのだ。むしろ,人間とロボットは,『さようなら』のように同じ性格をもち,互いに寄りかかっている。
このことは,近代西洋の世界観を支配している分離した宇宙観を採らない神道や仏教の世界観と切り離すことができない。西洋的な考え方では,生と死,身体と心,人間と動物,男と女の分離はしばしば絶対視されるのに対し,アジア的な考え方では,対立する諸部分の境界は,典型的な陰陽記号が示すように,はるかになめらかであり曖昧である。
このことは,日本人のロボットに対する根本的態度に色付けをしているように思われる。たとえば,神道では,全ての物は霊的水準,「カミ(kami)」に帰属される。「カミ」は西洋の言語に翻訳することが難しい言葉だ。それは「神聖なる力」を指すが,ときどき「神(god)」や「霊(spirit)」(たとえば崇められた死者の霊)と訳されることもある。しかし,他方で,生きている人間,他の動物,樹々や植物,石や山や海さえも指すことがある―すべてが「カミ」なのだ。江戸時代の学者本居宣長は,「日常から超越した質をもつあらゆるもの,著しく霊感を与えるあらゆるものがカミと呼ばれる」20)と述べている。この世界観のなかでは,神がロボットに帰属されることはおかしなことではない。仏教的な背景から,ロボット工学者の森は,ロボットもまた仏の性格を実現しようとしていると述べている 21)。
西洋と同じように,日本人も動物と人間を比較するが,それにより差異を指摘するのみならず,類似性(444)をも明らかにする。伝統的に,類人猿がこうした類似性を反映するが,近代の日本にあっては,その役割はロボットが担っていることが多い。日本人の世界観を特徴づける反省的擬人観(reflexive anthropomorphism)のもとで,ロボットは人間に対置されるものではなく,共通の性格をもつものなのだ 22)。
チューリングとウィトゲンシュタインの論争
人間と他の動物との違いを相対化することが,徐々に西洋の世界観に入り込んでいるにもかかわらず(著名な霊長類学者フランス・ドゥ・ヴァールの仕事を参照 23)),霊的水準をロボットに帰属することはいまだ容易なことではない。ジュリアン・ド・ラ・メトリーの『人間機械論』24)のタイトルに典型的に示されているように,機械論的世界観がある。この世界観のなかで,ド・ラ・メトリの現代の後継者である著名なアメリカ人哲学者ダニエル・デネットは,実際は人間が「湿ったロボット」25)以上のなにものでもないと述べている。
しかし,私の考えでは,西洋的な考え方は,唯物論とスピリチュアリズムとの不毛な対立を克服する方向に徐々に向かっている。このことを説明するために,しばらく『エクス・マキナ』に立ち戻ろう。この映画のなかでは,有名なチューリング・テストが重要な役割を果たすのみならず,チューリングの知的ライバルであるウィトゲンシュタインの霊も驚くべきことに登場する。ネイサンの会社「ブルーブック」とは,ウィトゲンシュタインの著作の名前である 26)。そしてそれは,その映画に登場するウィトゲンシュタインへの多くの言及の一つに過ぎない。たとえば,ある場面では,ネイサンの家の壁にかかっているグスタフ・クリムトが描いたウィトゲンシュタインの妹の肖像画が見える。
チューリングが「考える機械」について取り組んでいた数年間,数学の基礎に関するウィトゲンシュタインの講義に彼は出席していた 27)。チューリングと同様に,ウィトゲンシュタインは哲学的行動主義者であり,心的生と身体的行動を切り離すことは不可能だと信じていた。両者とも,知性は神秘的な内的力ではなく,人間の行動のなかに示されるものだと考えている。しかし,ある点では激しく対立する。『ブルーブック』のなかで,機械が考えることができるかという問題は,「数3」の色は何かと尋ねることと同様に無意味であるとウィトゲンシュタインは述べている 28)。語の意味はその使用にあり,機械をめぐる「言語ゲーム」のなかで,「考えること」「感情」といった語は存在しない。ウィトゲンシュタインによれば,秋の憂鬱さを掃除機に帰属させることは,露骨なカテゴリー・ミステイクであり,せいぜい詩的隠喩である。
しかし,この特別な論争の中で,チューリングはウィトゲンシュタインよりも一貫して行動主義者であり続けているように思われる。彼は,「アヒルのように見え,泳ぎ,鳴くものはアヒルである」というモットーに従っている。行動面で完全なロボットは人間と区別ができず,述語「考えること」は否定できない。チューリングは,ウィトゲンシュタイン以上に,言語使用は我々の慣習とともに変化することを理解していたように思われる。意図や感情を昔からの掃除機に帰属させることは馬鹿げているように思われるが,人工知能に対してはむしろそうするだろう。だから,私の孫たちは,掃除機ロボットが階段の前で引き返すのは落ちるのを恐れているからだと信じている。だが,彼らはロボットがそのようにプログラムされていることをよく知っている。しかし私たちも,プログラマーによってではなく,進化の過程で自然選択によってそのようにプログラムされているのではないか。
西洋哲学の文法や語彙は,もし人間とロボットが相互に利点をもつ共通の未来を発展させていこうとするならば,まだ調整の必要がある。神道と仏教が浸み込んだ日本的世界観は,人間とロボットのための未来を考え,形作るための概念をはるかに優れて取り揃えている。そして,もちろん有益な着想源でもある。当然のことながら,デジタル・オリエンタリズム,オリエンタルなロボットに関する知識の無批判の理想化は避けねばならない。東洋と西洋の対置は絶対的なものではない(絶対的に対置されると考える人は,いまだに問題含みの分離的宇宙論の犠牲者である)。さらに,東洋において,高い理想と期待のあいだの対立があり,他方で残酷な現実があることも,理想化ができない理由である。たとえば,仏教徒によるロヒンギャ難民への暴力を考えてみればよい。
そして,ロボットを愛する日本においてさえ,ロボットの導入は問題がないわけではない。たとえば,感情認識ロボットのペッパーくんの購入者は,ロボットに対して性的行為を行わないという規約を受け入れることを,ソフトバンクより求められている。2015年,イギリスが主導した「セックスロボット反対キャンペーン」29)とは逆で,そうしたロボットがセックスを商品化することで性を脱人間化するという恐怖からこの規約は提示されているのではなく,脆いロボットの魂への配慮から提示されているのだ 30)。仏教の本性は,まだ日本では理解されていない。おそらく,エリカの販売バージョンがまだ存在してはいないことに,私たちは感謝すべきだろう。
注
- http://www.ritsumei.ac.jp/ss/education/professional/mul.html/
- https://www.techtimes.com/articles/41932/20150324/robots-replace-half-jobs-20-years.htm
- https://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-3099703/Humans-left-defenceless-killer-drones-FlyingAI-robots-pose-threat-lives-expert-warns.html
- https://futureoflife.org/ai-open-letter
- https://www.bbc.com/news/technology-30290540
- http://www.reading.ac.uk/news-archive/press-releases/pr583836.html
- Turing, A.(1937). On Computable Numbers with an Application to the Entscheidungs Problem. Proceedings London Mathemetical Society, 42(July), 230-265. この論文の中で,チューリングはいくつかの決定問題(decision preblem)が「解決不可能」であるという主張の三つの証明を与えている。この証明のなかで,チューリングは「計算する機械」のような想像物を用いている。このタイプライター状の装置は,機械的に,単純な規則の集合を処理する。この考えを発展させて,チューリングは「普遍的な計算する機会」「あらゆる計算可能なシークエンスを計算することができる機械」を考えた(241)。
- Turing, A.(1950). Computing Machinery and Intelligence. Mind, LIX(2236), 433-460.
- https://www.iwm.org.uk/history/how-alan-turing-cracked-the-enigma-code
- Turing A. Computing Machinery and Intelligence. Mind, 1950; LIX: 433-60.
- Idem, 420.
- Idem, 431.
- http://www.reading.ac.uk/news-archive/press-releases/pr583836.html
- Epstein, R.(2007). From Russia, with Love. How I got fooled(and somewhat humiliated)by a computer. Scientific American Mind(October/November), 16-17.
- Kang, M.(2017). The Mechanical Daughter of René Descartes: the Origin and History of an Intellectual Fable. Modern Intellectual History, 14(3), 633-660.
- Plessner, H.(2019). Levels of Organic Life and the Human( Hyatt, Trans.). New York: Fordham University Press.
- Mori M. The Uncanny Valley. IEEE Robotics & Automation Magazine 1970; 19: 98-100.
- 英会話については以下を参照。https://www.youtube.com/watch?v=_NTj88
- Ishiguro, H., & Kanda, T.(2013). Human-Robot Interaction in Social Robotics. Boca Raton: CRC Press. Taylor & Francis Group.
- Gall, Robert S.(1999). “Kami and Daimon: A Cross-Cultural Reflection on What Is Divine”. Philosophy East and West. 49(1): 63-74.
- Mori, M.(1982). The Buddha in the Robot: A Robot Engineer’s Thoughts on Science and Religion. Tokyo:Tuttle.
- それゆえ,西洋の目から見て,日本人の行動はしばしばロボットのように見えるのだろうか。竜安寺駅からセンターへ向かう電車の中で,私は毎回光のような速さで仕事をする運転手を見た。時間通りに鏡を見て,出発の前にハンドルを握る前に,彼は対象を指さした。
- 「わたしたちは,人間と類人猿,類人猿と猿などはっきりとした境界を想定することから始めるが,知識の海がそれらに打ち寄せるとき,実際は砂の城を扱っているのだ。それらは丘にいたり,進化論が我々を導くところまで,さらに水位を上昇させる。すなわち,穏やかな傾斜海岸である」。
- La Mettrie, J. O. de(1981 [1748]). L’homme-machine. Paris: Denoéel/Gonthier.
- ジェニファー・シュスラーとのインタビューより。Schuessler, J.(2013, April 29). “Philosophy That Stirs the Waters.” The New York Times.
- Wittgenstein, L.(1958). Preliminary Studies for the “Philosophical Investigations,” generally known as the Blue and Brown books. Oxford,: B. Blackwell.
- Wittgenstein, L., Bosanquet, R. G., & Diamond, C.(1976). Wittgenstein’s Lectures on the Foundation of Mathematics, Cambridge, 1939: from the notes of R. G. Bosanquet, Norman Malcolm, Rush Rhees, and Yorick Smythies. Ithaca, N. Y.: Cornell University Press.
- Wittgenstein, L.(1958). Preliminary Studies for the “Philosophical Investigations,” generally known as the Blue and Brown Books. Oxford: B. Blackwell, 47.
- https://campaignagainstsexrobots.org を参照。
- https://www.wired.co.uk/article/pepper-robot-sex-banned を参照